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三人寄れば文殊の知恵

三人寄れば文殊の知恵

無我の我

布教とは「教えを広くいきわたらせること」なのですが、
説法のイメージがあります。

宗派によってはその説法を重視しており、法事でお経よりも
説法のほうが長いこともあるそうです。

高野山にいた頃、布教の講義がありました。

当時の私の中では「布教=説法=日蓮上人の辻説法」
となっていました。

新しい都として整備されつつある新興都市鎌倉!

その鎌倉を舞台にして、大通りに集まった民衆を前に
「旧仏教は悪」と言い切り「法華経への帰依」を
獅子のごとく訴える日蓮上人!

それこそが布教!

新聞の広告ではありませんが

「布教の講義を受ければあなたも日蓮上人になれる!」

ということで、大変に期待しておりました。

ところが・・・実際の講義は

布教の話の作り方!

概要は

1、まず聖語(お釈迦さん、お大師さんの言葉)などを引用

2、自らの体験

3、再び聖語を繰り返す

う~ん、なるほど・・・しかし、あまり面白くなさそう!

これでは日蓮上人になれそうもない?

このような布教の話は
あまり気乗りしませんでしたので、
私が創った話が

「無我の我」

仏教では我を否定して無我を説きます。

したがって、無我の状態とは自分が自分で
無くなるように思われています。

また、仏道修行をすると、
温厚な性格で、いつも笑みを絶やさず、
慈しみを持って、人の意見に逆らわず、
少欲で満足するようになるように思われます。

しかし、全くそんなことはありません。

その証拠に、日本の高僧を見てみましょう。

弘法大師をはじめとして、伝教大師(最澄)
日蓮上人、道元禅師、親鸞上人、一休禅師・・・

慈しみはともかく、そのほかはいかがでしょう。
非常に強烈な個性をお持ちのように思います。

すなわち、仏教の教えに触れて仏道修行を積んで、
無我という状態になったら、さまざまな執着からは離れますが
我というものがなくなるわけではなく、
むしろ、その人のあるがままの姿が
現われるといっても良いのではないでしょうか?

ですから、仏教の無我というものは
その人の個性を失くすものではなく、
その人の個性を生かすものなのです。

というような話だったと思います。

しかし、終わった後に、自分の話を無視された先生から
怖い顔でにらまれました(汗)   コウユウ

最終更新日 2008年03月02日


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